はじめに
1999年10月20日にリリースされたGLAYのアルバム「HEAVY GAUGE」に収録された楽曲『生きがい』は、単なるロックバンドの一楽曲を超えた、タイムマシンのようにバブル直後の日本を映し出す鏡のような作品です。この楽曲が生まれた1990年代後半という時代背景を考察するとき、私たちは日本社会が経験した未曾有の価値観の転換期に立ち会うとともに、その中でも異色の価値観をもったTAKUROの頭の中を感じることができるとともに、彼の苦しみを味わうような感覚に追われます。

バブル経済の絶頂から崩壊、そして「失われた10年」と呼ばれる長期不況への突入(もう失われた30年が過ぎましたね)。この激動の時代において、GLAYというバンドは文字通り大成功しました。1999年7月31日に開催された「GLAY EXPO ’99 SURVIVAL」いわゆる伝説の20万人ライブでは、単独アーティストとしては当時世界最大となる人数を動員し、日本そして世界のライブ史に金字塔を打ち立てました。アルバム売上枚数、ライブ動員数において次々と記録を樹立し続けた彼らは、まさに資本主義社会が求める「数字による成功」を体現する存在でした。
しかし、その成功の頂点において、次に目指すべき目標が見えない虚無感に襲われたようです。GLAYは解散の危機だったと。それはことし様々なメディアでGLAY本人の口から幾度も語られました。考えてみれば当然かもしれません。「ベストアルバム日本史上最高の売上枚数、ライブ動員人数世界一となった今、俺達はどこを目指すのか」と思う気持ちはわかります。だからこそ同じアルバムHEAVY GAUGEの2曲目に収録されている『FAT SOUNDS』ではWHERE DO ROCKBAND WANNA GO?と繰り返し歌われ、10曲目に収録されている『Will Be King』ではLonely,lonely,lonely,lonely heart と共に遠くまで、超えるまで、勝てるまで、届くまでと際限のない到達点が歌われています。
『世界に一つだけの花』が2002年にヒットしました。
NO.1にならなくてもいい もともと特別なOnly oneという歌詞は、競争社会に疲れた多くの日本人の心に響いたといいます。
そんな世界に一つだけの花の大ヒット前、まだ競争社会まっただ中だった日本。そしてその中で大成功したTAKURO。そんな彼が抱える苦悩が「生きがい」という楽曲であると私は考えます。そしてこの作品は、当時多くの日本人が目指していた「資本主義社会での勝利」という価値観に対する、静かで深遠なアンチテーゼとして機能しています。
ちなみに私の周りでは、かなりの人が生きがいを再評価しています。今になって、昔より好きになっている。それがなぜなのか、そもそも生きがいとは何を書かれた曲なのか?ということを書いていきます。
第1章:冒頭部分に込められた実存的告白
楽曲の冒頭で歌われる「許されぬ過ち」には、単なる個人的な後悔を超えた、深刻な実存的な感情が込められています。この「過ち」とは何でしょうか?それは、成功を追求する過程で見失ってしまった何かに対する後悔なのかもしれません。
1990年代後半の日本社会で成功を手に入れた人たちの中には、達成感と同時に、ある種の虚無感や疑問を抱く人も少なくなかったのではないでしょうか。バブル期の狂騒の中で、多くの人々が「モーレツに働いて成功し、高い車に乗ってうまい飯を食い、高級なワインを飲んで良い女を抱く」という価値観を追求していました。(令和でこれを書くと怒られるんだろうなあと思いつつ、当時の話ですからね。一応)でも、その成功を手に入れた後に「これで本当に良いのだろうか?」「本当に求めていたものはこれだったのだろうか?」という疑問を感じる人もいたのでしょう。
GLAYもまた、音楽業界で頂点を極めた存在として、成功の意味について深く考える機会があったと思われます。アルバム売上枚数、ライブ動員人数という「数字の記録」を樹立し続けることの意味や、その先にある目標について疑問を感じることもあったでしょう。この成功への複雑な感情が、「許されぬ過ち」という表現に込められているのかもしれません。
続く「どんな出来事も振り向いたなら懐かしき日々」は、時間の経過とともに、かつては重大に思えた出来事も美化されてしまう人間の心理を描いています。この現象は複雑で、単純に良い悪いで判断できるものではないでしょう。一方では、過去の美化は心の平安をもたらし、前向きに生きるための力となることもあります。他方では、過去の問題を曖昧にしてしまい、同じ過ちを繰り返すリスクもあります。TAKUROは、この人間の心理の両面性を冷静に観察しているのかもしれません。
「運命は一瞬のホンの出来心」という表現は、人生の重大な転換点が、実は些細な偶然や衝動によって決まってしまうことの不条理さを示しています。GLAYの成功も、音楽業界での出会いや偶然の重なりも当然影響していました。この偶然性への認識は、成功に対する謙虚さと同時に、その虚しさをも表しているように感じられます。
第2章:人間関係の困難と相互的な傷つき
「人の心にむやみに踏み込んで ここでは返す刀で怪我をした」は、人間関係における相互的な傷つきの構造を鋭く描写しています。この表現には、二つの重要な意味が込められていると思われます。
まず注目すべきは、他者の心に「むやみに踏み込む」行為です。これは、人間関係において相手の境界を尊重せずに関わってしまうことの問題を表していると思われます。成功を求める過程で、時として人は他者との適切な距離感を見失ってしまうことがあります。相手の気持ちや立場を十分に考慮せずに行動してしまうものです。
そして「返す刀で怪我をした」が示すように、他者を傷つける行為は必然的に自分自身をも傷つけるのです。この部分は、GLAYが音楽業界で成功を収める過程で経験した、人間関係の複雑さと困難さを反映しているのかもしれません。いや流石にそれは深読みしすぎか。
第3章:価値観の転換点 – 「あなた」の登場とその象徴性
楽曲の中核となる「疲れる事を知らない子供の瞳で愛を説くあなた」は、主人公の価値観転換の契機となる存在を描いています。この「あなた」は、単なる恋人や配偶者を超えた、もっと象徴的な存在として昇華させて考えても良いと思います。純粋に彼女や恋人で考えても良いです。
バブル期からバブル崩壊後にかけての日本社会では、「24時間戦えますか?」という価値観が支配的でした。リゲインのCMね。しかしながら(However,)この「あなた」は、そのような競争原理とは無縁の存在として描かれています。「疲れることを知らない」という形容は、資本主義社会の競争に疲れ果てた主人公との対比を際立たせているんですよ!
社会的な価値判断に汚されていない純粋な視点を象徴する「子供の瞳」。子供は、大人が当然視している社会的な序列や価値観を理解しません。株価や売上高、社会的地位、ライブ動員人数といった資本主義社会の価値基準は、子供にとっては意味を持たないのです。まるで「裸の王様」の童話で、王様が裸だと正直に言った子供のように、この「子供の瞳」は資本主義社会の価値観を相対化する視点を提供しています。
「愛を説く」という行為は、言葉による説教ではなく、存在そのものによる教えを意味していると考えられます。この「あなた」は、愛について語るのではなく、愛そのものを体現している。と捉えるほうが自然です。「愛っていうものはね」という感じではなく、主人公自身が愛を感じ、愛に支えられているという話だと思います。そう捉えると、「子供の瞳で愛を説く」という歌詞は、「あなたの瞳を見ていると、あなたの愛情を感じられた」という構造になりますね。
そして「あなたがくれたかけがえの無いもの」とは、物質的な贈り物ではなく、新たな価値観や生きる意味そのものを指しているのでしょう。資本主義社会では、価値は貨幣によって測定されますが、この「あなた」がくれるものは、貨幣では測定できない「かけがえの無い」価値なのです。
それを
「大切に守り抜いてく それこそが… 日々の暮らしの中に咲いた 生きがいになるだろう」という結論は、この楽曲の核心的メッセージです。TAKUROは生きがいを華やいだ街での欲望にまみれた享楽や、数字的な成功の中にではなく、日常的な暮らしの中に、人間的な関係性の中に見出したのです。
第4章:愛と憎しみの複雑な関係性
「愛する事と憎むことは つまり構成してる物質は同じ事と気づきながら」は、楽曲の中でも特に哲学的な深みを持つ表現ですよね。この認識は、感情の本質に関する深い洞察を含んでいると思われます。
愛と憎しみが「構成してる物質は同じ」という表現は、一見矛盾するように思える二つの感情が、実は同一の根源から生まれることを示しています。
心理学的に見ると、愛と憎しみは確かに密接な関係にありますよね。強い愛情は、裏切られた時に強い憎しみに転化します。また、無関心よりも憎しみの方が、愛に近い感情だと言えるでしょう。なぜなら、両者とも対象への強い関心と執着を前提としているからです。
当時中学生だった私は、この歌詞を「うーん、分かるような分からないような」という受け止めしかできませんでした。人生経験があまりにも少なかった。でも成長していく中で、多くの苦しみや喜び、愛と憎しみを経験する中で少しずつ実体験としてそういうことが増えてきました。そのうえでこの曲を改めて聴くと、この歌詞の意味が少し分かる気がするんですよね。「あなたの言葉の意味がわかる」じゃないですが。生きがいが年を経て評価されていく理由の一つが、これだと思います。
「その白い胸がくれる温もりが なぜか無性に孤独にさせた」という表現は、とある増田を思い出しました。増田というのはAnonymous Diaryつまりはてな匿名ダイアリーを指すスラング(あのにマスダいありー)ですが、超長文なので少し引用します。といっても引用も長いですが。

とあるIT企業で優秀だったためにプロジェクトリーダーとして任命されるも、中間管理職として苦悩しながら追い詰められて精神が限界になってしまった人の話。
精神が壊れてきた増田は家ではため息しかしなくなり、食欲もなくなっていた。ハゲは進行し、ザ・おじさんのような見た目になっていた。
ある朝、どうしても会社に行くのが辛くなり、妻にもう会社に行けないかもしれない、と弱音を吐いた。妻は増田の仕事が辛い現状は当然察していたため、無理していかなくていいよ。会社辞めてもいいよと言ってくれた。私に何かできることがある?と聞かれたので、とりあえずおっぱいの谷間に顔を挟みたいことを伝えたら、朝からおっぱいの谷間に顔をはさんでくれた。
5分ほどおっぱいの間に挟まることで、何らかの作用があったことを知覚した。少し元気が出てきた。会社に行けそうな気がする。
(中略)おっぱいに挟まれたことで精神が回復したこと、その包み込まれている安心感により、今日会社に行く勇気が湧いてきたことを伝えた。
妻は困惑しながら「いわゆるおっぱいからしか得られない栄養があるってことね」と言って送り出してくれた。
僕はここまで追い詰められたことはないのでわからないけど、「その白い胸がくれるぬくもり」は、極限状態の人だけが感じるなにかなのかもしれない。逆に言えば、当時のTAKUROはこの増田レベルで苦悩していたのかもしれない。
そして「ぬくもりをもらって元気がでるので、また僕は仕事に行ける」というのはつまりTAKUROにとって「僕は本当はあなたとの時間を大切にしたいのに、また戦場へ行かなくてはいけない」のであって、だからなぜか無性に孤独を感じるのである。なぜかではなく自明と言えるかもしれない。
後編に続く
次回「第5章:「華やいだ街」への鋭い社会批判」

コメント